内緒のお部屋(バックナンバー)


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(感想、はげましのおたよりは練正館ホームページで受け付けています)


(1999.10.4掲載)

夢のマスターズ

 1978年3月31日、いよいよマスターズへの出発の時が来ました。

 マスターズには弟篤志が同行しましたが、私は同行できませんでしたので、オーガスタでの様子はよくわかりません。しかし、うちでは常幸さんが出かけた後も義父はまるで自分が戦場におもむいている戦士の状態で目の色が変り、いきり立っていました。

 私はそんな義父を見、義父の放つ言葉を聞きながら、本当にこんな事でいいのだろうか、父の言動は本当に常幸さんの為になることなのだろうかと心配になってきていました。私はアメリカからの電話で常幸さんと話す事さえできず、新聞で記事を読むことさえままなりませんでした。父はとにかく、マスターズが始まり初日の結果報告が来るまで何かに憑かれたようになっていました。そのため家族は父の機嫌をそこなわないようにぴりぴりしていました。

 私の知らないところで初日の結果報告はされたのでしょうが、私の耳にはなかなか入りませんでした。そして、翌日の新聞で、日本勢は大荒れと見出しに書かれ、尾崎・第1打を松の大木に・4オーバー・50位。青木・お池に連続ポチャン・7オーバー・65位。中島・ボギー行進・8オーバー・72位、と書かれてある記事を見たのです。それから、2日目の朝、きっと常幸さんからの2日目の結果報告があったはずなのですが、朝起きて台所に行って見るとなんとなくいつもと様子が違うのです。

 母もいなく、父も出てこないのです。しばらくすると、母がグリーンの奥にある2階建ての小屋から出てきて「お父さんが風邪をひいて皆に移してはいけないのであちらの部屋に移った」と言って常幸さんがマスターズから帰るまで出てきませんでした。その数日間、なんとも静かな春らしい時が流れていました。私はこっそり母が食事を取りに来るとき常幸さんの成績を聞き、予選落ちをした事を知ったのでした。

 私は予選落ちを聞いた時「あぁ、これで良かった。」とおもわず思ってしまいました。成績など良かった日には義父がどの様になるか恐いと思っていました。翌日の新聞も父は見ようともせず、各社の新聞がどっさりと積まれているままでした。私は義父達のいない家でこっそり新聞を見、大変な事になっていた事を知ったのでした。


(1999.9.30掲載)

マスターズへの猛トレーニング

 1978年1月10日、マスターズからの正式な招待状が自宅に届いたのでした。

 日本からは尾崎将司、青木功、中島常幸の3人が招待されました。日本からマスターズに3人招待されるのはこれが初めてのことです。また、23歳2ヶ月は、もちろん日本選手のマスターズ出場最年少記録でもあり、その年のマスターズではセベに次いで2番目に若いプレーヤーでした。日本のゴルフ界を人気、実力でリードする“最強トリオ”のマスターズ出場として、新聞は連日若い中島を取り上げていました。また、女子では岡本綾子プロも新人として常幸さんと同じように注目され、フレッシュ対談などしたりゴルフ界もますます活気づいていました。

 常幸さんは「出るからには勝つ事しか考えていません。生意気だと思われるかも知れませんが、勝負の世界は“勝つ”という心構えで臨まないと良い成績は残せないと思います。とにかく頑張ります。」(やっぱり、タイガーでした。)

 父親の巌氏は「常幸がマスターズの舞台に臨めるのはまだ2〜3年先かと思っていたが、招待状がきた以上、召集令状を受け取ったようなもの。時期が早いの何のと言っている段階ではない。常幸には進軍ラッパを吹き鳴らし、玉砕覚悟でぶつかって来いと言ったんですよ。」と親子で全力投球の構えでした。

 78年のマスターズに向けて私達は家庭内別居を強いられたまま、トレーニングが始まりました。群馬の赤城おろしのからっ風の中、朝8時から夜7時まで、その間休める時は昼食の1時間のみ。また、父親は連日のように来る報道陣に対しマスターズでは、優勝か玉砕かと言っていたのです。

 しかし、父は予想以上の事をいつもしていてくれている常幸さんに対し、きっと期待をしていたと思います。毎日、毎日、連続打ちをしては冷たい氷のいっぱい入ったバケツに腕を入れて冷やし、また、連続打ちを何度となく繰り返すのです。鉄棒、バーベル上げ、タイヤを腰にひきずっての坂道のランニング、そして、機関銃のように打つドライバー・ショットなどハードトレーニングは延々と続けられました。

 私はまた、時おり見せる父の負のエネルギーによる言動に少し疑問を持ってきていました。しかし、そのような気持はいつも胸の内に納められ、誰にも言うことはありませんでした。常幸さん自身はどのような気持であったのか、やはり、何も口にする様なことは、決してありませんでした。私達家族は愚痴を言う暇も無い程忙しく、皆が追い立てられていたのです。

 しかし、私は現在に至るまで義父の事をキライだと思った事は一度もありません。義父はダンプカーのようなバイタリティーのある強烈な人でしたが憎めない可愛い面もたくさん持っていた人です。ある人が言っていましたが、父を評して、50年、100年に1度の人物だと言っているのを聞きました。本当に父のような人はなかなかいないと思います。中島常幸を育て、わずか、10年間の間に0からゴルフ場を4つも造り上げてしまった人です。勿論そのバックに中島常幸がいたからこそ、このゴルフ場もできたのですが、そういう意味でもいつまでも中島親子は手を取り合って生きてきたのかも知れません。

 父親本人も「中島常幸は2度と出ません。第二の常幸は、永久に日本からは生まれてこないでしょう。なぜなら、私みたいな親が2度と出てこないからです。私は鬼です。鬼になりきれる親は私が最後です。」と鬼は言ったのです。そんな、強烈な鬼の元で家族皆が振り回され、疲れてしまっていたのも確かでした。


(1999.9.27掲載)

父の反骨精神

 父がマスターズの夢を語るのはいいのですが、純粋にマスターズで戦いたいと思っている常幸さんとは少しずつ“ずれ”を感じるようになっていました。父は反骨精神が強く世間を見返したいという気持が強かったのです。かたや、常幸さんはゴルフが面白く、戦う試合に純粋に勝ちたい、いい試合をしたいと思っていたのです。

 父の気持を察するに、常幸さんが中学生の頃、父親の会社が倒産、そんな苦しい中で、芽を出しつつある常幸さんのゴルフを取り上げることはできなかったのです。鳥籠ネットの中で2個のボールを打ち続け、河川敷きのパブリックコースにいくのがやっとのこと、おにぎりを持ってセルフでゴルフした時代。

 家の中の物が、学校から帰るたびに1つ減り、2つ減り、最後には何もなくなり・・・父親は「トレーニングができるように部屋を広くした」と強がったそうですが、最後には電気まで切られ、本当に裏の草を取って煮て食べたそうです。そんな、苦しい中、唯一常幸さんのゴルフが何ものにも変えがたい光であり、中島家の生きる道がそこにあったのだと思います。

 そんな、彼が17歳でパブリックに優勝し、18歳で日本アマに勝った時、ゴルフを紳士のスポーツだのブルジョアのスポーツと言っている人達には、中島親子の様子は奇人、変人、というところだったのでしょうか。とにかく、父のエピソードは尽きませんが、例えばあの日本アマで「ねじり八巻きでやれ」といわれれば、タオルを頭に巻いてプレーをするのですから、今もそのときの様子が我が家のアルバムに載っています。

 また、あるときは、ティーグランドは土俵と同じだ、だから、“しこ”を踏め、と言われれば、大舞台であろうが、“しこ”を踏むのです。このような思い出話は我が家では大笑いしながらいつも話しています。妹の恵利華など来たら一段と話が盛り上がり、爆笑に継ぐ爆笑です。やはり18歳の若者には恥ずかしかったそうですよ。でも、その代わり何も恐くなかったそうです。

 話がそれましたが、そんな奇人、変人の中島常幸の優勝を当時のJGAは素直に喜ぶ事ができなかったのでしょう。その若者は表彰式でそれを肌で感じたのです。おまけに、日本アマに勝ちながら、世界アマにも選ばれなかったのです。当時のJGAにも言い分はあるのでしょうが、その事は今も彼のイヤな想い出として彼の胸に残っているようです。そして、涙を流して喜んでくれた父をみることのできた彼らの一番良い想い出の試合でもあるのです。

 父親は苦しい環境の中ですべてを犠牲にしてでもゴルフをさせ、実力の世界で日本一になる夢を見ていたのですが、勝利をもってしても認められなかったことに対して父の反骨精神に一段と拍車をかけたのではないでしょうか。

 私は当時このようなことは何も知りませんし、聞いていませんでした。主人からこのような話を聞いたのもごく最近ですが、その当時の父と同じ年齢に近付き、同じ年齢の子を持つ親として、父がどんなにか悔しく、腹だたしい想いだったろうと察するのです。


(1999.9.23掲載)

マスターズからの招待状

 その年のシーズンも終りを迎え、常幸さんは公式、公認競技の賞金ランキングは5位となりました。後援競技のヤングライオン、日本国計画サマーズの賞金は加算されなかったのです。後援競技を含めるとランキング3位にいました。3位ですと、78年のセントアンドリュースで開かれる全英OPにも本選から出場できたのですが、5位のため予選から出場することになりました。

 77年義父は常幸さんの成績が予想以上のものとして現れたことに、コーチとしてやってきたことが間違っていなかったという確信をいっそう強く得たのではないかと思います。その冬のトレーニングはなおさら熱を入れようとしていました。

 そして、父は毎日のように取材を受け「中島ゴルフ」の技術論、精神論を語ったのでした。中島常幸が強くなればなるほど彼を育てた父として彼以上にクローズアップされたのです。そんな12月23日、夢のマスターズからの招待状が届いたのです。公式戦の日本プロの優勝を含めて3勝、33試合中ベスト10入り16回、予選落ちわずか3回という成績にマスターズ委員会が選考してくれたのでした。78年の全英OPに的を絞るどころか4月のマスターズ招待に飛び上がらんばかりの喜びだったのです。

 一方、私は体調に変化があり、その頃、妊娠していることが分ったのでした。父のオフに結婚披露宴をやると言っていた約束はマスターズ招待と私の妊娠でそのようなことはやる暇なしということで結局、と化してしまいました。とにかく、父は闘牛のごとく鼻息荒くマスターズへ向けてトレーンングをさせようと意気込んでいました。

 結婚してからトーナメント期間中も独身の時のように電話で長々と話すことができなくなっていた私達は、オフにやっと夜だけでも一緒に過ごす時ができると思っていたのですが、「律子はもう、妊娠したことだし、常幸はトレーニングで体力を使い、身体を酷使するわけだからマスターズに出かけるまで別居だなぁ」と私達は家庭内別居をさせられてしまったのでした。


(1999.9.20掲載)

初めての海外遠征

 10月30日、ブリヂストントーナメントを4位で終了した常幸さんは羽田へ直行し、初の海外遠征へ向かいました。104組が出場するチーム・ゴルフ選手権で初日−常幸 68 、ミラー 70の7アンダー・14位、 2日目−常幸 64 、ミラー 70、8アンダー・7位、3日目−常幸 67、ミラー 68、8アンダー7位、最終日は常幸 70、ミラー 72の2アンダー・トータル25アンダーで16位になりました。

 常幸さんのセンセーショナルな大活躍は、東洋の驚異として地元フロリダで報道されていたそうです。そしてすさまじいモテモテぶりで、多くのギャラリーが彼を取り巻き「どうしてあんなにボールが飛ぶのだ。」とクラブとボールをチェックされたそうです。

 ミラーからは「最終日の17番で中島のバーディーをパーと記入ミスをしてしまい、中島に本当に悪いことをしてしまった。でも、中島のゴルフを初めて見たが全く素晴らしい。こんなに良い選手だとは知らなかった。この大会では中島一人がラウンドしたようなもので、私は何の役目も果たせなかったよ。1,475ドルの賞金をもらうのは気がひける」とコメントしていました。

 この試合で彼は予想以上の活躍をみせ、“中島ゴルフ”が本場米国でも十分通用することを日本のファンにもはっきり示してくれたのでした。また、彼自身が今まで苦労したことが無駄ではなかったこと、自分のゴルフがアメリカで通用することを肌で感じ、自信と“できる”という確信を持つことができたのでした。

 そして、近い将来、必ずアメリカツアーに参加したいという希望がますます大きくなったのです。また、彼自身、今までいろいろ批判されたりしてきましたが、米国でプレーして初めて僕の生き方が正しかったということが分かりましたと付け加えたのでした。


(1999.9.16掲載)

J.ミラーからの手紙

 その太平洋マスターズでは大挙して米国の若手ツアープロたちがやって来ていました。そこで、中島の長打がどこまで通用するか、雑誌、新聞は鵜の目鷹の目です。彼の長打が通用すれば、彼らの言っている米国ツアー制覇、マスターズ優勝もありえるかもしれない、プロ入りしてすぐ米国の“メジャー制覇”の夢を語り、あまりの突飛な発言に周りを驚かせたものですが、それも夢ではないかもしれないと思わせはじめていました。

 幸いにしてブルース・リツキーというツアープロの飛ばし屋No.1と初日、2日目同組で回ることとなりました。ボールをガンガンとばし、しかもフェアウェーをはずさず、常に怪物リツキーを20ヤード近くオーバードライブ。これにはリツキーの方が目を丸くして「何てヤツだ、あんなに正確に飛ばすヤツは見たことない」とあきれかえらせ、「冷静な試合運び、ショートゲームのうまさはとても22歳には思えない素晴らしいプレーヤーだ」と絶賛してくれたのです。

 4日目のパートナーは“静かなるドン”の異名を持つドン・ジャニュアリー。その静かなるドンが中島常幸を評して「経験を積めば恐ろしいゴルフをする男になるだろう」と語っていたそうです。

 前年度のダンロップ・フェニックスでもB.クレンショーに「日本で参考にできるのは中島常幸だ」と言わしめたほど、海外のゴルフ雑誌や新聞にも日本に新星・中島常幸が現れたとたびたび紹介されたのです。

 そんな中島常幸に目をつけたJ.ミラーから、11月3〜6日にあるウォルト・ディズニー・ワールドナショナルチームチャンピオンシップに、J.ミラーのパートナーとしてプレーしないか、J.ミラー個人の招待として理解していただきたいとの手紙が常幸さんに届いたのでした。ミラーのマネージメントを担当するUMI日本支社によれば「ミラーの強い要望」、さらに「中島の素質に惚れ込んだ」ということらしいのです。


(1999.9.13掲載)

結婚報道

 1977年10月6日木曜日の夕方、スポーツニッポンの末永さんという方が急に訪ねて来られました。それまで、取材のあるときはいつも私は二階の部屋に隠れ姿を見せないようにしていました。そのときも、身を潜めていたのですが、KBCの時の常幸さんの発言やいろいろなところで、やはり中島は結婚しているのではないかという噂が飛び交っていたのではないでしょうか。

 その中でも一番確信を持っていたスポニチとしては結婚していることを新聞で発表すると言ってきたのでした。慌てた義父は一社だけに発表されては困ると、その夜各社に電話をして結婚していることを発表したのです。

 太平洋マスターズの週の金曜日の朝の新聞は「中島常幸が結婚していた」「すでに入籍」「恋も超スピード」「中島常に花嫁」「恋のホールインワン」という活字が飛び交っていました。

 また、金曜日の朝のスタートホールでは「この方が今朝のスポーツ紙でにぎやかに結婚を報道されている中島プロです。」と紹介され、照れ笑いに、苦笑いといったところだったのでしょうか。

 昼過ぎには義父も騒ぎの結末が気になったのかコースに姿を見せ、報道陣から「なぜ結婚を隠していたのか」と質問ぜめにあい、汗をかきかき事情を説明したそうです。父はオフになったら結婚式をするつもりで1、2月は大事なトレーニングの期間、そのためトレーニングの終った3月に発表するつもりであったと。そして、常幸は飛ばし屋と言ってもまだまだ世界でやれるような飛距離ではない。来年は50ヤード、25、26歳にはあと100ヤードまで伸ばしたいと意欲的な事を言って帰って行ったそうです。

 かたや常幸さんは「隠していた入籍が表面に出てすっきりした。これまで以上に責任を感じるよ。彼女はやさしい人だし、勝つと喜ぶだろうなぁ」とこれまでの中島にない明るさを見せていたということです。このようにして、私達の結婚が世間の知るところとなったのでした。


(1999.9.9掲載)

日本プロ戦後最年少記録

 破竹の勢いは止まることもなく1977年9月25日、22歳の中島常幸はプロ入り2年目にして公式戦の日本プロ選手権において日本一のプロの座に着くことができたのです。初日1オーバーの73の51位と出遅れた中島常幸は2日目65のコースレコードを打ちだし2位に浮上、3日目67とスコアーを伸ばし、4日目大試合のプレッシャーの中、崩れを見せず後半の悪天候の中72のパープレーで2位に3ストロークの差をつけ堂々と逃げ切りました。

 おまけに戦後最年少優勝の記録まで作りあげ、ツアー参加2年目で日本一の座についたのは昭和46年の尾崎につぐ快挙。日本プロ優勝賞金400万を獲得した彼は賞金レースの方も前週の2位からトップへと踊り出たのです。名実ともに日本一のプロになったツアー2年目の坊やに頭をとられた他のプロ達はこれから中島に強烈なライバル意識を燃やしてぶち当たって来るはず・・・・

 う〜ん、これって誰かのデビュー当時に似ている。そうそう、2年程前、藤木三郎プロがあるレストランに行き、そこのオーナーに「日本にタイガーは出ないんですかね」と聞かれたところ藤木プロが「日本にタイガーはいたんですよ。それは、中島常幸だった。」と言っていたそうです。それを次の日にそのレストランに行った常幸さんがそこのオーナーに聞かされたそうです。

 今、内緒の部屋を書きながら昔のアルバムや資料をみながら主人の事を調べていくと本当に彼は日本のタイガーだったのだなとつくづく感じるところがありますね。

 また、去年の日本オープンの練習日、弟の和也君が大洗まで行き、米山プロと鈴木プロと常幸さんの3人の練習ラウンドについて廻ったそうなのですが、常幸さんの調子は最悪で3人の中で予選落ちをするのは兄貴だろうな、と思ったそうです。しかし、試合が始まり予選落ちしたのは米山プロと鈴木プロ。兄貴は15位で終った。あのゴルフで15位になれた事自体すごいことだ。兄貴はやっぱり世界一の天才だ。普通のプロなら余裕で予選は無理だね。兄貴だからできること、と言っていました。

 今、調子の良い中島常幸をお見せ出来ないことはとても残念ですが、彼の存在が日本のゴルフ界を変えていったのも事実だと思います。

 話がそれてしまいましたが、日本プロの2日目65をマークしたとき、中島家では大喜び。アッという間にいなくなった義父は買物に出かけて、なんと、乳母車を買ってきたのですから 大笑いものです。まだ、ベェビーは影も形もないのですから。


(1999.9.6掲載)

ライバルあらわる

 結婚して1ヶ月も過ぎた頃、おかしなことに弟達が毎朝、数を数えているのです。どういう訳なのか聞いてみると、私が結婚してからの日数を数えていたのです。「今日で35日目」という具合に。彼らは、私が義父の恐さに何日耐えられるか、何日で家を飛び出すか、と数えていたのです。

 しかし、幸い常幸さんの成績も良く父はいつも上機嫌でした。本当はとてもナイーブな面を持ち合わせている父は。大声を上げたり怒ることがあっても、すごくその後、気を使っていました。

 私は日本国土計画の優勝の後に九州であるKBCオーガスタへ一緒に行ってもよいということになりました。しかし、結婚していることは内密だから決して誰にも言ってはならないと念を押され、私達は福岡へ行きました。福岡に行ったその日の夕方、私達はスポーツニッポンの記者の親戚の方と食事をすることになっていました。

 その方々もやはり病院を営んでおられるお医者さんのご家族で年頃のお嬢さんも連れて来られていました。その家族に私は、なぜ中島さんにこの女がついているのだと思われているようでした。特にそのお嬢さんの私をみる目は・・・それは・・・そ・れ・は・・・・・・女はコワ〜〜イ〜〜。

 それに気づいた常幸さんは「ここだけの話ですが、僕達結婚しているのです。誰にも言わないでください。」と言ってしまったのです。その家族はビックリ仰天です。ここだけの話なんて絶対にありえないのですから。おまけに、記者の親戚ですよ。

 KBCオーガスタでは遠くからカメラに追われる始末となりました。しかし、その頃はまだフォーカスなどありませんでしたから、雑誌に載ることはありませんでしたが、半信半疑の噂が記者の間で飛び交っていたと思います。

 女性も知らないと言っていたあの中島常幸が結婚〜?????????? うっそーー!!


(1999.9.2掲載)

素直でないな

 彼の家での生活は父を中心にすべて常幸さんのために組まれていました。そして父は常幸さんに絶大な期待と夢を持っていました。特に海外、マスターズで勝たせる事が父の夢だったのではないでしょうか。父の話は力強く、味方につければ100万倍の勇気と自信を植え付けさせてくれそうでした。

 また、打席練習場の壁を3分の1ほど埋めていた“つた”を見ては「あの壁がつたで埋め尽くされるときには常幸がマスターズで勝つときだ」とよく言われていました。

 結婚後も成績は順調でした。関東オープン13位、関東プロは前年度に続いて2位、そして、次のヤングライオンで2年連続優勝を果たすことができたのです。

 また、翌週の試合では生まれて初めてのホールインワンまで出すことができ、まさに順風満帆といったところでした。その、順風満帆の風は弱まる事もなく8月の日本国土計画サマーズの試合でまたも優勝へと導きました。

 栃木県で行われた試合のため、父は私や弟達を連れて応援に連れていってくれました。まだ、丸坊主の青木プロを振り切り優勝を勝ち取りました。優勝賞金600万円当時の賞金では高額であったと思います。賞金ランキングも8月21日で2位となりました。

 父はその優勝を見てとても喜んで嬉しくてたまらないという感じでした。常幸さんより一足先に私達は自宅に戻りテレビ観戦をしたのですが、テレビをみて褒めちぎっていた父は常幸さんが帰ると優勝スピーチの時の手の位置が悪いとかいって褒めようとはしないのです。彼らを見ていると本当に父親と息子というものは素直でないなと思います。

 勝った時にはもっと喜んであげ、負けたときには慰め励ますことができたならもっと、もっと良かったのにと思います。でも、父は戦いだー、まだまだ、休む暇なし、というところだったのでしょう。


(1999.8.30掲載)

鬼監督

 義母の話によると、私達が結婚してからの義父は随分と変ったと言っていました。父はきっと、常幸さんに対して結婚した一人の独立した男として尊重しようとしておられたのだと思います。しかし、ある面、父は自分がコーチであり、鬼監督になって息子達を指導していかなければならないと思われていたようです。ですから、自分が父親の顔を見せると息子達が弱くなる、鬼監督でいると子供達に嫌われるとよく、言っておられました。

 しかし、常幸さんは父親の期待以上のことを成し遂げ続けてきたのだとおもいます。彼が15歳でクラブチャンピオンになって「天才少年現れる」とTVの小川宏ショーに出演してから、数々のアマタイトルを取り、記録を塗り変えてきたことは、父でも予想できないことだったのではないかと思います。

 また、プロになり、1年目にしてレギュラーツアーにまで勝つとは思いもよらないことだったような気がします。一年目の熊本で開催された日本プロで6位になったときのことが、父が残していたアルバムの片隅に次のように書いてありました。

 『1976年9月 日本プロゴルフ選手権(九州球磨カントリークラブ)常幸6位。健闘。新人としての活躍アッパレ。が敢えてナミ子(母の名)に念を押す。「帰宅した常幸に、よくやったとは言うな」と。将来、彼が強く成ることが彼の幸福につながることなのだ。だから、「残念だな、次回頑張りな」そう言うことだ。でないと、たくましく前進(進歩)はない。それが子育てだぞ! 決して誉めてはいけない。 昭和51年9月27日』と。

 ですので上位に入るだけでもこのときは本当はとても喜んでおられたのだと思います。が、常幸さんを油断させないためにも、勝っても誉めない。当たりまえだという態度を示されていました。目標は海外なのだから、これくらいのことで喜んだり、祝ったりなどできない。と言う気持を持とうとしておられたのです。


(1999.8.26掲載)

11人の大家族

 父は私に、お前なら大丈夫やっていける。母は、あなたには神様がついているから安心している。そんな2人の言葉に送られて、7月12日の夕方、私は宇部空港から家族の見守る中、迎えに来た皆と一緒に旅立ちました。飛行機に乗るときは急に悲しくなり人拐いにでもあっているような気持ちになりました。

 そんな私に気づいた義父は群馬の家に着くなり、毎月1度は里帰りをすればいいなどと言ってくださったのですが、やはり、現実はそんな甘いものではありませんでした。夜の9時頃、群馬の家に着き、いよいよ、中島律子として中島家での生活が始まるのです。しかし、常幸さんとの結婚はシーズン中のため、ゴルフだけに集中するため内密にしなくてはならないとのことでした。

 家族は両親、弟3人、妹、研修生、私達含めて計11人の大家族です。翌日にはもう、常幸さん達はゴルフの練習です。そして、私は料理も作れないのに、料理、掃除家事を一挙にバトンタッチされました。私は料理ブック片手に必死の思いで毎日奮闘しました。でも、食べ盛りの子ばかりでしたので、美味しい美味しくないは別にして、良く食べてくれましたので作り甲斐がありました。

 義母は私が来たため家の中のことはすべて私に任せて庭に出て、義父の庭の手入れを一日中手伝うのです。2面のグリーンもラフもバンカーもすべて義父が土を掘り起こし砂や土、芝を買って造り上げたものでした。肥料から消毒まですべて義父の手で行い完璧なほどの素晴らしいコーライとベントのグリーンでした。これも、すべて常幸さんの為にという義父の愛情の現れではなかったのではないでしょうか。


(1999.8.23掲載)

7月11日 月曜日 晴天

彼らが迎えに来る7月11日がもうすぐやってきます。しかし、私としては結婚式をしないで結婚生活に入ることなど、どうしてもできないと思いました。披露宴などは私にはどうでもよいことでしたが、結婚式もしないでどのように結婚生活のスタートをきるのか、信仰ある私としてはなおさらのことでした。

私は中島家に胸の内を話し、許されるなら私の教会で式だけでもさせていただきたいと申し出たのです。義父はすぐに承諾してくださいました。

7月11日 月曜日晴天群馬から義父を始め弟の篤志、篤人、和也、現在JGTOの競技委員をしている古山聡(彼も中島家でゴルフを学んでいた一人です。)、萩の叔父様、そして常幸さんがやってきました。家の方は両親、祖母、姉夫婦だけでした。両家の紹介を終え私達は皆で教会に出かけました。

私は小さな花の刺繍がしてある白いワンピース、常幸さんはグレーのようなダブルのジャケットに白いワイシャツに紺色に白い水玉模様のネクタイでした。式は牧師先生により執り行われました。

「人は父母を離れ、その妻と結ばれ、二人の者は一体となるべきである。彼らはもはや、二人ではなく一体である。だから、神が合わせられたものを人は離してはならない。」との聖書の朗読の後「あなたはその健やかなる時も、病めるときもつねにこれを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命の限り、かたく節操を守ることを誓いますか。」との問いに私達は「誓います」と両親、兄弟姉妹の前で誓約をすることができました。教会で麦茶を飲み私達の結婚式は終りました。

その日は家に泊まり、翌日には群馬に旅立つのです。これが、私達の結婚生活のスタートとなりました。


(1999.8.19掲載)

飛んで帰った

 その翌日、彼は父親と話し合うため、凄い決意のもと自宅に電話をしたのだそうです。すると、父親は彼の電話に間髪を入れず「律子と結婚させるから、すぐに帰るように」と言われたのだそうです。それを聞いた常幸さんも「うん」と返事をして飛んで帰ったという話です。飛んで帰った常幸さんはミズノで相談にのってもらった事もふっ飛んでしまったようです。

 彼の家で何が起きたていたのか知らない私達は、彼の家からの2回目の電話で、2週間後に挨拶に使いの者を伺わせたいとの知らせを受け、やはり、もう結婚に向かって進み始めているのだと分ったのでした。このようにして、私達に結婚と言う文字が現実のものとして目の前にはっきりと見えたのでした。

 それからの常幸さんの成績はみるみる良くなってきました。フジサンケイ3位、三菱ギャラン11位、東北クラシック5位、サッポロ東急2位、あの5月13日から約1ヶ月の間、優勝争いを繰返し、もうすぐ優勝という兆しも見えてきていました。

 その間、中島家としては約束通り小野田まで常幸さんの叔母様と後援会長のような事をなさっていた藤枝さんという方が話に来られました。話は「今はシーズン中なので結婚式や披露宴はできません。そのようなことは、シーズンが終っていたします。しかし、群馬に来て一緒に住んで欲しい。」とのことでした。

 そして、7月6日の長野オープンが終ると21日の関東オープンまで試合がないので、その間の7月11日に迎えに来るとの話がなされたのでした。


(1999.8.16掲載)

スパイクをはいたまま

 もう彼はそんな父親の拘束に耐えられなかったのです。そして、もっと自分で自分なりのゴルフをしたかったのではないでしょうか。負ける事は、親よりも誰よりも自分自身が一番悔しいはずです。それが、自分で悔しさを受け止める前に親に無茶苦茶に責められてしまったらどうなのでしょう。

 彼はマッチに敗退して帰った時の父親にはもう、ついていけない、耐えられない、と思ったのではないでしょうか。彼は父親や弟達の目の前から、スパイクをはいたまま自宅練習場から一気に走って逃げて行ってしまったのです。

 すぐに、皆は追いかけたそうですが、彼を捕まえることはできず、そのまま見失ってしまったのでした。彼はスパイクをはいたまま、畑の中を走って近くの薮塚駅まで行き、タクシーに飛び乗り東京に向かったのです。そこで、何処に泊まり何をしたのかいまだ聞いていません。とにかく、私に電話をかけたそうなのですが前にもお話ししたように、私は何も知らず練習に行っていたのでした。

 翌日彼はミズノに行き、当時の副社長、今は亡き松浦さんを訪ね、色々話を聞いてもらったそうです。彼は父親から独立をして、自分の意志で自由にゴルフがしたい、またさせて欲しいというようなことを相談したのだそうです。彼の翼は、もう十分強く大空を自由に舞うことができるほどに成長していたのだと思います。

 松浦さんは「分ったけれど常幸さん一人で決められることではないので父親とよく話し合いなさい」と言われたのだそうです。


(1999.8.13掲載)

敗退して帰った日

 結婚した後、義母がそのときの事を話してくれたのですが、敗退して帰ったその日、負けることの嫌いな義父は常幸さんを相当なじり、叱咤し、手をあげたそうです。常幸さんとしても、プロになった立派な大人です。もう彼自身、耐えられなかったのではないでしょうか。

 彼の日常生活には何一つ自由がなかったのですから。私は彼から、彼の家の話し、父親に対する愚痴など聞いたこともありませんでした。悩みを打ち明けられたこともなく、彼が何に対して悩んでいるのかも知りません。ある意味、彼は遠征に行き、ゴルフをしているときが一番幸せだったのではないでしょうか。

 彼の生活の1つの例をいいますと、遠征先で朝起きるとまず自宅に電話をかけます。ホテルを出るときまた電話をします。ゴルフ場に着くと電話、試合が終わると結果報告の電話、悪ければ延々と説教。練習が終わると電話、ホテルに着くと電話、食事が終るとまた電話、それ以外にも自宅からかかってくるのですから、たまったものではなかったでしょう。

 ただ、彼が8時には寝るからと言えば、もう自宅からは電話がかからないのです。それから、彼のわずかな自由な時間が持てるのです。そして私に電話をして、いろいろな話をしたのでした。私との電話が唯一、彼の楽しみであり、息抜きだったのではないでしょうか。


(1999.8.9掲載)

結婚する気はあるか

 76年に続き77年プロ2回目の日本マッチプレーの出場となりました。しかし、彼は2回戦で敗退してしまったのです。彼は敗退して家に帰り、そこでどのようなことがあったのか、私にはまったく分かりませんでした。

 ただ、その日から次の試合まで彼からの電話はないはずですので、私は久しぶりに両親とゴルフの練習に出かけていました。

 彼はマッチプレーの前2週、24位、20位という成績は彼の父親にとって満足のいくものではなかったため、多分相当に威圧されていたのだと思います。そこへきての敗退です。彼の家のことは想像を絶するのですが、まだ私には何の理解もできていませんでした。

 私がその夜、練習に出かけているとき彼は私の家に電話をかけたそうです。でも、その電話に誰も出る人はいませんでした。そして、次の日も私達は練習に行き、彼も練習に勤しんでいるものと想っていました。多分次の日だったと思うのですが、常幸さんのお父様から電話がかかってきたのです。

 義父は私に「常幸と結婚する気持はあるか」と突然尋ねられたのです。

 私はその場ですぐに「はい」と答えてしまいました。すると、義父は「何も持たなくてよいから、常幸と結婚するために明日にでもきてくれ」との電話なのでした。私は、何がなんだか分らないまま、どのような返事をしたかも覚えていないのですが、電話を切った後も、ただキツネにつままれたような感じでいたのでした。


(1999.8.5掲載)

1日1000発

 1977年1月、常幸さんの休みは、1年のうち、お正月の3日間だけです。そしていよいよ冬のトレーニングに入りました。今は常識のトレーニングですが、その頃のプロは誰もしていませんでした。

 彼は赤城おろしの空っ風の中、1日1000発の打ち込み。朝の7時から夜の7時まで毎日ハードトレーニングが続きました。そして、夜は私と毎日の電話デート。お互いの家の電話代は、その当時でかるーく10万は越していました。親も目をつむって許してくれていました。

 そして、1977年4月開幕のダンロップ国際が始まりました。初日74の44位となった常幸さんは2日目68を叩きだし4位に浮上。彼のゴルフは75打てば次の日には65などヒヤヒヤさせたり、大喜びさせたりというゴボウ抜きゴルフをよくやってくれていました。

 結局その開幕の試合は2位。【村上が予選落ち、青木、尾崎は下位と日本選手が“討ち死に”したこの大会、最高の2位につけたのは中島だった。「オフの練習量の差だと思います。」22歳の若者はわるびれもせずいった。】と当時の新聞にかいてありました。

 そして、このときG.ノーマンも来ていたのですね。ちなみにノーマンは12位で終わっていました。常幸さんは次の試合の中日クラウンズは、アマチュアで出ていた倉本さんと同じ24位、その次では20位、父親の期待とは裏腹の結果ではなかったでしょうか。

 そして、とうとう私達の運命を決めるような事件が、次の試合の日本マッチプレーで起きるのです。


(1999.8.2掲載)

見ると聞くとは大ちがい

 1976年常幸さんは20試合に出場し、そのうち予選落ちはサントリーオープンとミズノオープンのみ。賞金ランキングは17位となり、新人王、MVP(特別賞)などを受賞。期待の星としてあらゆるマスコミが常幸さんのことをとりあげていました。いままでにないプロゴルファーとして注目を浴びていたのです。

 それは、彼がデビューした頃のゴルフ界は、朝のスタート前の練習はするのですが、終った後の練習は誰もしていなかったのです。そんな中、彼だけは終った後も長い時間、練習をするのです。そんな彼を見て杉原輝雄さんは「なかなか骨のあるヤツだ。」と言っていたそうです。

 それは、他の選手からは「生意気だ」「ふてぶてしい」「親のロボット」、マスコミには「キカイダー」「ゴルフサイボーグ」「父親に純粋培養されたゴルフマシーン」と言われ、異色の目で見られていました。本人自身も「予選で落ちることはありません」「食事とトイレ以外は全てゴルフをしている」「酒もたばこもやりません。そんなことして、ゴルフがうまくなるのなら別ですが、そんなことないでしょ」「夏バテも疲労もぼくには関係ありません。どんな試合が続いても、ぼくはへばらないように身体を鍛えている」「世界一のゴルファーになるのがぼくの目標」などと言っていました。

 きわめつけは8月の関東プロで、そのとき帝王といわれていた村上隆プロに破れ2位になったとき「村上さんはいまがピークの選手。それに比べ僕はこれから伸び盛り。追い付き追い越すにはそんなに、時間はかかりませんよ」

 また6月にあった日本マッチプレーでは、安田春雄プロが中島のOKボールをクラブでたたいて転がし返したのに対し、そのあと中島が安田プロのOKボールを同じ様に返したものだから、安田さんが「なんだ、馬鹿野郎」とかみつき、中島が安田さんに「なんですか、バカヤロウとは・・・」とやり返した話は、有名な話となったのでした。奇行、放言に周囲の風当たりは強く、先輩プロ達には面白くない存在だったのです。

 そんな中、杉原輝雄プロだけは「見ると聞くとは大ちがい。彼のマナーはいいですよ。アマ時代に大試合を経験したせいだろうが、打順を待っている時やグリーン上の態度は、こっちが教えられたくらいです」とほめちぎってくれたのです。

(参考文献:週刊ゴルフダイジェスト)


(1999.7.29掲載)

トマトスープ事件

 私の気持は大変複雑でした。自分の年齢を考えると5年後には30歳を過ぎている訳ですから。だからといって、常幸さんが今結婚するには私が考えても早すぎる。本当にこのままお付き合いをしていいのだろうかという気持ちになっていました。

 1976年12月、私は玉川大学で勉強したいものがあって、スクーリングにきていました。常幸さんは試合も終り、新人王として色々な取材やテレビ出演に忙しい日々を送っていたようです。そんな12月も終る頃、日本テレビの番組に出演するため、東京に来るとのこと。2人は会う約束をして、番組終了後、日本テレビで会いました。もう、6時近くになっていたと思います。

 私達はタクシーで東京駅のすぐ側にある東京国際観光ホテルに行きました。私達が2人だけで逢うのはそのときで2度目のことです。逢うこと自体・・・宇部ペプシ、ヤングライオンの初日、KBCオーガスタ、日本オープン、ダンロップフェニックスの5度のみ、しかもヤングライオン以外すべて弟つきでした。ですので、2人はいたく緊張していました。私達は国際ホテルの洋食レストランに入りました。

 そのときのことはいまだに子供達にも話して聞かせているのですが、とにかく次から次へと運ばれるサラダ、スープ、ステーキ、パン、殆ど2人共、緊張で食事がのどを通らないのです。唯一、美味しそうなトマトスープが飲めそうでした。常幸さんもそのトマトスープを口にしました。とても美味しい・・・そう思ったとき常幸さんは初めてのトマトスープの味に「このスープ美味しくないから、飲まないほうがいいよ」と言いました。結局そのトマトスープも飲めず2人はほとんどの食事を残したまま、あっという間に常幸さんの帰る電車の時間になってしまいました。私達がそのとき話したことは、何も覚えてなくて、いまだにあの時の飲めなかったトマトスープの話をします。

 そして私達は、去年の12月25日に子供達を連れて東京国際観光ホテルのあのレストランに行き、そのときの話を子供達にしながらトマトスープを美味しくいただきました。


(1999.7.26掲載)

一生恨むからね

 常幸さんは、福岡からも何度も彼の家に電話をしていました。結婚後、そのときのことを義母が話してくれたのですが、常幸さんは約束を守ってくれなかった父親に対し「親父のこと、一生恨むからね」と義母に言ったそうです。

 ほんの1時間、私の家に寄り、私が生まれ育った家を見たい、そして両親に会いたかったのでしょう。あっという間にその時間は過ぎてしまいました。彼らはその夜の夜行寝台列車で大阪まで行き、朝の飛行機で羽田まで帰り、それから、電車で群馬の家まで帰らなくてはならないのです。

 私達の別れは本当に悲しいものでした。駅で見送った時から3日間、私は部屋に閉じこもりずーと泣いていました。常幸さんと一緒にいた弟の話によると、彼も寝台車から飛行機の中、そして群馬の実家に着く直前までずーと泣いていたそうです。でも、もうすぐ、家だというところでピタリと涙が止まったということでした。

 私は泣き続けた3日目の日、この涙の原因は何なんだろうと思ったのです。そして、この涙は彼の父親が原因なんだ、では、原因と思われる彼の父親にはっきり、私達が交際していいのかどうなのか、直接聞けばいいんだ・・・そう思った私は、ムクッとベッドから起き上がり、部屋を出て彼のいる群馬に電話をしたのです。

 電話には義母が出られたのですが、「常幸さんではなく、お父様とお話がしたいのですが」と、私は電話を義父に取りついでもらい、「私は常幸さんとおつき合いしない方がよろしいんでしょうか? もしご迷惑なら、私はもう手紙も電話も致しません」と言ったのです。

 すると、そのとき義父は「そんなことはない。今まで通り手紙も電話もしていい」そして、なんと「なんだったら婚約してもいい」と言われたのです。チョット話が極端なのではと驚いてしまったのですが、その夜、常幸さんから電話があり、父親と何を話したのかと聞いてきたのでした。

 そして2人は、本当に反対されていないのかなぁーと思いながら、電話デートを続けることができるようになったのでした。


(1999.7.22掲載)

無言の圧迫感

 そんな中島家の訪問を終え、小野田に帰りました。そして、常幸さんにとってシーズン最後の試合のダンロップフェニックスになりました。彼と彼の父親との間では、この試合が終った後、私の家に行って1〜2日遊んできてもいいとの約束がなされていたのです。

 私も宮崎まで応援に行きました。そのとき常幸さんは弟の篤志、通称あっちゃんを連れて来ていました。3日目を終って11位にいました。最終日の朝、しきりに、群馬の彼の実家と電話で何か話しているんです。私には、そのとき何を話していたのかは分かりませんが、ただプレッシャーをかけられている感じでした。

 後でわかったのですが、私の家に遊びに寄ってもいいということは撤回され、フェニックスに優勝したら寄ってもいい、ということに変ってしまっていたそうです。優勝となるとそう簡単にはいきません。

 その当時、海外からジャック・ニクラウス、ベン・クレンショウ、ヒューバート・グリーン、セベ・バレステロスなどの強豪がきていましたし、今でさえ、日本人としての優勝は中島常幸と尾崎将司しかいないのですから。そんな中、彼はよく健闘したと思います。結局2アンダーの13位でした。

 私は、私の家に来るものと思っていたわけですが、何か様子がおかしいのです。電話で何かずっとやり取りをしているのです。彼はどうしても家に寄りたかったのでしょう。群馬の家には、宮崎からの羽田行きが満席で、どうしても今日中には帰れない、と言っているようでした。

 群馬には結局どの様に言ったのかはわかりませんが、ただ私の家には「泊まれなくなった。すぐに帰らなくてはならない。でも1時間でもいいから寄りたい」と言いました。そして、私達は宮崎から福岡へ飛行機で飛び、福岡から新幹線で下関に向かい、私の家のある小野田に立ち寄ることができたのです。その間、主人の父親が無言で私達の交際を反対しているような、そんな圧迫感を感じていました。


(1999.7.19掲載)

義父との初対面

 その年の日本オープンはセントラルゴルフクラブで開催されたのですが、そのとき常幸さんのお父様から、ぜひ応援に来てやってくれとの電話があったのです。それで私は母と2人で日本オープンの会場へと応援に行きました。

 そのとき初めて常幸さんのお父様にお会いすることになったのですが、義父は日焼けした色黒のガッチリした体格の一見恐そうな方でした。しかし、私のものおじしない性格のおかげで、ずっと義父と一緒に常幸さんを応援したのです。結局そのときの日本オープンは、今のJGTOのエグゼクティブディレクターの島田幸作さんが、4アンダーで優勝しました。中島常幸はトータル4オーバーで青木功さんと同じ12位タイで終りました。

 一緒に応援して回って気に入られたのか、日本オープンの終った日にぜひ母と家に寄ってくれと言われ、群馬の彼の自宅まで訪問することになったのです。

 今は関東に来てセントラルがどこにあり、群馬の桐生や薮塚がどこなのか分かるのですが、そのときは全く頭の中に地図が無く、方向がさっぱり分かっていませんでした。だから、寄ってといわれても随分遠かったです。そういえば2〜3時間かかった気がします。

 彼の家は立派なタイル貼りの洋館でした。800坪の庭には、きれいなコーライとベントの2面のグリーン、バンカー、ネットで囲んだ20〜30ヤードの打ちっぱなしがありました。

 その夜は母と泊めていただきました。朝6時に起きると、ラジオ体操の音楽がかかり体操を始めるのです。なんとなくみんな気恥ずかしそうでしたが、やはり後の話を聞くと、私が来たときだけのラジオ体操だったそうです。


(1999.7.15掲載)

動揺は隠せません(笑)

 私は「25年生まれ」と答えたのです。すると、彼は「う、うん、わかった」……「そ、そんなの関係ないよ。じゃあ、また電話するから」とすぐに電話を切ってしまいました。随分驚いていたというか、慌てていたというように私には思えたのですが……彼は結婚してからも「そんなことはない」と言っていましたが?? あの動揺は隠せません(笑)

 彼は29年のうま、私は25年のとら、年齢を隠していたわけでもなかったのですが、10月半ばも過ぎて年齢のことをいうことになってしまったのです。

 そして、その電話の夜遅く、自宅から電話が来たのです。彼は「年齢のことは、弟にも誰にも言わないように、そして4〜5歳の差なんて、60歳70歳になったときにはたいした差ではないよ。」との電話をしてきてくれたのです。なんとやさしい!

 私は26歳になり、結婚適齢期に突入していました。三代続いた開業医の家に生まれ、3人姉妹の姉2人は医者と結婚し、両親は3番目に残った私に当然、養子の医者と結婚して後を継いで欲しいと願っていました。私自信も居心地の良い両親や環境から離れたくないのも事実でした。

 でも、常幸さんへの想いは私にそんな両親や家への想いを吹き飛ばす勢いでした。母に「中島常幸さんみたいな人がいいから、あんな人探して」というと、「あんな人はいないだろうね」といっていました。父は私と母が常幸さんのことで夢中になっているのを見て、とても不機嫌でした。

 父だけ常幸さんと会ったこともなく、一度も話したこともなかったのですから。それがある日、常幸さんから電話の途中、私の父と話したいというのです。電話を替わり、話が終ると、父は一瞬にして常幸ファンになっていました。

 「声がいい。やさしそうだ。若いのに落ち着いている。」


(1999.7.12掲載)

結婚という言葉

 私達の電話デートは相変わらず続きました。自然消滅すると思っていた私でしたが、根気よく常幸さんは電話をくれたのです。彼はデビュー1年目にして、美津濃新人ヤングライオンズ、そしてレギュラーツアーのゴルフダイジェストに優勝したのです。

 そのゴルフダイジェストの優勝のときの秘話を1つ。最終日は横なぐりの強い雨、ポカポカ陽気も一転、気温はグッと下がった。スタート前「このコンディションなら、トップグループのスコアは伸びない。3つ沈めれば勝てる。」との言葉を残しスタートしていったそうです。

 しかし、14番ホールでドライバーを打ち2打目をピッチングで打ったところ、グリーンをキャリーでオーバー。その奥はOB、もう駄目だと思ったところ、ギャラリーの傘に当たりボールはセーフ。そこで、パーをセーブして助かったのです。そして2位に2打差をつけて、逆転優勝をすることができたのです。

 その傘に当たった方にお礼をと名前を聞いたところ「小野田さん」だったそうです。私のいる小野田を思い出し、私になおさら縁を感じたのでしょうか(失礼いたします)。

 いえいえ、そんなことも結びつけたい頃だったのです。辛抱して聞いてください。

 それから、次の週のブリヂストンオープンが終った日曜日、コースか何処かの公衆電話からかわかりませんが、彼の口から初めて「結婚」という言葉がでたのです。彼は22歳になったばかり、まだ結婚するには早く、親の反対も受けるだろうと思っていたでしょう。私に5年待って欲しいと言ってきたのです。

 私は「チョット待ってください。私の年齢まだいってないんですけど」と言いました。彼は1〜2歳年上かもしれないと思っていたそうで「歳なんか関係ないからそんなのいいよ」と言うのです。「それは困る」というと「では、何年生まれ?」とやっと聞いてきました。


(1999.7.8掲載)

ドアのノブはついている

 ある時、常幸さんが手紙は自宅に送らないで欲しい、近くに住む叔父さまの家に送って欲しいというのです。封を開けられチェックされているのがイヤだったのでしょうね。でも、私には何故なのか解らず、そんな隠れてするようなことは私もイヤだったので、相変わらず、彼の家に手紙を出していました。でも、義母が私の手紙は義父に渡らないように工夫して、そっと常幸さんに渡してくれていたのです。

 常幸さんからの電話は遠征に出た火曜日の夜から土曜日の夜まで毎晩、宿舎から電話がありました。夜の8時以降は電話代が半額になるからと、8時から9時までは常幸さん、折り返し私が9時から10時まで、計2時間の電話デートが続きました。そのため、私は両親との夜のゴルフ練習に行けなくなってしまいました。

 その当時、シード選手以外は毎月行なわれるプロの月例でポイントを取り、その上位者がトーナメントに出場できたのですが、常幸さんはその上位者としてシード選手並にペプシ宇部から出場していました。ほとんど予選落ちも無く、今から考えると凄いことだと思います。アマチュアの成績も然ることながら、主人がいかに凄いことをやってきたのかが解ります。

 勿論あの父親あっての中島常幸といわれても仕方ないほどの父親の情熱の入れようだったと思います。そして、また、あの厳しい父親によくついて行けたなとおもうのです。息子雅生にとって、幸か不幸か中島常幸はそんな義父とは違います。それがいいのかどうかも、まだまだわかりませんが、主人が息子に教えたいことは山ほどあると思います。しかし、教えることが本当に本人にとって良いのかどうかもこれも解りません。結局、しっかり自分で自分の道を歩かなければならないのですから。特にこのような実力の世界では。「天は自ら助くる者を助く」の如く、自分で門を叩き続け、切り開こうとしなければ何もおきないのです。

 だから今よく、話題になっている狭い特別推薦枠について文句をいうのでなく、努力して実力を上げて、自力でその枠の中に入れるように頑張って欲しいとおもうのです。自力で出ている選手が殆どなのですから。出場できないのではないのです。ドアのノブはちゃんとついているのです。


(1999.7.5掲載)

何よりの贈り物

 何かプレゼントをしたい。そんな思いで私の部屋を見渡したところ、米国の大学の医局に留学していた義兄、姉夫婦の元に私が1ヶ月程遊びに行った時、買って帰った祈りの手が真中にある縦15センチ横7センチの十字架が目にとまりました。それをプレゼントするしかない!

 私がとても気に入って大切にしていたものだけど、中島常幸さんのこれからのゴルフ人生の中で、神に頼りたいとき、神に見守られたいとき、心の支えとなるものになってくれればいい。そんな思いでプレゼントすることにしました。

 小郡駅に先に着いて待っていると常幸さんと和也君が「やっぱり、いた、いた」なんてこそこそと話しながらやってきました。そしてホームに行き、いよいよお別れがやってきたとき、もし良ければと十字架を差し出したのです。すると、彼は大喜び「これは、何よりの贈物だ」と言ってくれたのです。そうして、新幹線が入ってきて、握手を交わしてお別れをしたのです。私にとってこれが本当の最後なんだとおもっていました。

 その後常幸さんはその十字架をキャディーバッグの中に入れて転戦したそうです。後々のミズノの人達の話しによると、その十字架に鎖をつけてぐるんぐるん回して持ち歩いていたとか・・・チョット恐いものがありますが、でもまあ、大切にしてくれていたのです。その十字架は運良く、また私の元に帰って来ることができ、今は主人の沢山のトロフィーと一緒に飾られています。

 宇部の試合が終り、見送りをしたその数日後に「ミズノ新人」という1日36ホールの試合があったのですが、3人のプレーオフによる4ホール目でプロ初優勝ができました。すぐに、勝ったという電話がありました。それから、思いもしなかった手紙と電話が来るようになったのです。

 私も手紙を書き送ったのですが、送った手紙は全て彼の父親に封を開けられ内容チェックされていたそうです。私の最初の手紙を見た義父は「なかなかしっかりした子だ」と褒めていたそうですよ。私はそのときは見られてることも知らず、結婚後、義母に話して聞かせてもらったのです。


(1999.7.1掲載)

尊敬しちゃうな

 実は私は中学、高校と、北九州にある西南女学院というミッションスクールに通っていました。そして高校3年の時、西南女学院の高校の校長先生の影響で洗礼を受けクリスチャンになっていました。

 ですので本当は4日目の朝、応援に行こうか、教会に行こうかと迷ったのですが、結局応援に行ったのです。そして常幸さんとは4日目が終ってしまえばもう会う事もないだろうなという思いで、そのとき、お別れしたのでした。

 しかし、彼の叔父さまが山口県の萩に住んでおられたため、4日目終了後、常幸さん達は萩に泊まりに行ったのす。私はそんな事は知らずに満足な4日間を過ごし、朝の礼拝を休んだため日曜の夜の夕拝に教会に行っていました。

 すると母が教会まで迎えに来ました。何事かと思っていましたら「中島さんから電話があったので早く帰りなさい。」とのこと、私は言われるままに失礼させていただいて家に帰り、折り返し常幸さんに電話をしたのです。電話があったことは、まさに母が持たせてくれた名刺の威力でした。

 そして、私が教会に行っていた事を伝えると「きょうかい、て何?」と聞いてきたのです。それで、実は私はキリスト教のクリスチャンで、夕拝のために教会に行っていた事を話すと、常幸さんは「尊敬しちゃうな。」と言ってくれました。

 そして、明朝の新幹線で小郡駅を出発すること、出発時刻をまたはっきりというのです。送って欲しいのかなと思い「送ります」というと「いいよ、いいよ」というのです。私は翌朝小郡駅に見送りのため車で向かったのでした。

 そして、見送りに行くとき私は何かプレセントをしたいと思い、彼に必要なものは何か、何を喜んでもらえるのかを考えたのです。


(1999.6.28掲載)

これは絶対なくせないぞ

 「名前は伊藤律子」、そんな会話を交わしながら3日目、和也君と常幸さんの応援をしたのです。松岡先生のことはすっかり忘れてしまっていました。後でゴルフ仲間からやはり「裏切り者」と言われてしまいましたが、しかたないですね。ここだけの話、うまくて、カッコイインだものね。

 その3日目も1OB、トータル4オーバーで予選をぎりぎりで通過しました。そして、3日目終了後、和也君が「律子さん、2階の食堂に来て」と言うのです。私は「食堂には行けません。プロしか入れないんだから。」と言ったところ、「律子さんを連れて行かないと、僕、お兄ちゃんに怒られちゃう」と言うのです。その言葉で私も怒られては可哀相だからということで、プロのいる食堂に図々しくも行ったのでした。

 話したことはあまり覚えていないのですが、テーブルの上に、山ほど注文した昼食の品物が殆ど食べ残してあったのを覚えています。そのようにして、和也君のお陰で常幸さんと話すことができるようになったのです。そしてその後、近くの練習場に連れていってあげました。そこで一生懸命練習していましたね。いよいよ4日目になりました。やはり4日目も1OB、トータル6オーバー42位で中島常幸のデビュー戦は終了しました。

 私達は外のベランダに出て、グラハム・マーシュピーター・トムソンが何ホールもプレーオフをしている様子を上から見ながら、「僕も早くあんなにたくさんのギャラリーを連れて歩きたいナー」なんて言っていました。とにかく、私は4日間で中島常幸と会話できる程になっていたので、随分興奮していたと思います。

 実は4日目の日曜日の朝、応援に出かける時、母が父親の名刺の横に律子と書いて、これを中島さんに渡しなさいと言って、その名刺を私に持たせたのです。私は図々しく渡すのはいやだったのですが、プレーオフを見ている時、常幸さんが「律子さん、律子さんと言っているけど名字は何だっけ?」と聞いてきたのです。それで私は名刺を持っているからと言って名刺を渡すことができたのでした。母の力添えがあったからこそのできごとです。

 そのとき常幸さんは「これは絶対なくせないぞ」と言いながら、大切そうにその名刺をジャケットの内側のポケットに入れたのでした。


(1999.6.24掲載)

美しい人だナー

 宇部の試合は中島常幸にとって、プロとしてのデビュー戦だったのです。私としてはとにかく大喜びです。松岡先生を応援もでき、中島常幸も視れるわけですから。

 コースは今年開催された宇部C.Cの万年池東コースです。主人の宇部興産OPの2回の優勝は北コースと西コースです。東コースは苦手なのです。まあ、その東コースで私と出会ったのですから、文句は言えません。そんな東コースの10番ティーグランドにスタート前の中島常幸が立っていました。黒いズボンにオレンジ色のセーターにきれいに整えられた髪にキャップ帽、そしてメガネ、まるで大学生の様でした。とにかく清潔感溢れた人でした。私は彼を見たとき「美しい人だナー」という印象を受けたのです。後に彼、曰く私を一目見たときから「この人だ」と思ったと言ってくれていますが・・・・・

 そうして、スタートして行ったのですが、地元の松岡プロもいたため、20〜30人位のギャラリーが着いて歩いたと思います、とにかく、常幸さんはうまい! やはり、飛び抜けてパターがうまい! グリーンを外してもアプローチがOKの処に寄るのです。

 今年4日間で6発のOBを出したのですが、出会ったときは初日終って1OBの2オーバーでした。あの時はパーシモンにスモールボール、今とは飛距離も違い、1オンさせようなんて考えもしない、全く狙いどころが違ったと思います。今年久しぶりの東コースだったので、つい思い出しながら応援してしまいました。

 この年の宇部の2日目は雨で中止でした。で3日目は初日いなかった主人の末弟の和也君が来ていました。そして3日目がスタートすると小学6年になったばかりの小さい和也君がするすると近寄ってきて「名前なんていうの?」ときいてきたのです。


(1999.6.21掲載)

私は秘かに……

 その「ジャンボ尾崎に挑戦」に出場した新人中島常幸は強かった。ものおじせず、全盛期のジャンボにリードしていたのですから。ところが中島常幸がOBを出してしまい並んでしまったのです。その時の司会者が「どうですか、並びましたが?」と聞いたところ、中島常幸は「これで面白くなりましたね」などと言ってのけたのです。

 2回にわたって放送されたその番組は結局、中島常幸の勝ちで終りました。そんな放送のすぐ後に今度は「ゴルフは愉し」とかいう番組で中島常幸の特集があったのです。それも、たまたま見ていて、いやーこの人、本当に強くなりそうだな、と思っていたのです。

 私は彼のアマチュア時代の成績、全日本パブリックを17歳で最年少優勝、17歳で日本アマ3位、18歳で日本アマ最年少優勝、そして、日本アマ優勝の資格で19歳からトーナメントに出てはベストアマを取っていた輝かしい成績など知る由もありませんでした。ちなみに日本アマの最年少記録は26年たった今でも破られていません。

 そのころの私は相変らず、両親と夜の8〜10時のゴルフの練習を楽しんでいました。そんな1976年の5月、宇部C.Cでトーナメントがあるというのです。そして私達のゴルフの先生も出場できることになりました。いわゆる地元のプロとして推薦されたわけです。そのプロは松岡修身という方です。確か先生の息子さんは専修大を出て、大利根C.Cでプロになられています。

 余談になりましたが、とにかく私達ゴルフ仲間としては、先生を応援しなければなりません。しかし私は秘かに、中島常幸がこのトーナメントに来るのなら、ぜひ彼のゴルフを見てみたいと思っていました。でも、先生を応援しないと裏切り者と思われるし、困ったなぁ〜と思っていたのです。そうして、いよいよ前日になり組み合せ表を見てみると……な・な・なんと松岡先生と中島常幸が同じ組で回ることになっているではありませんか!


(1999.6.16掲載)

新人中島常幸

 清水さんとお話ししているうちに「内緒のお部屋」という私のページを作ってくださいました。これは1回で終るわけにいかないし、単発的なもので済ますはずだったのに困ったことになったなと思ったのですが、これを機会にのんびりと私達の出会い、結婚、独立などを振り返りながら皆さんに聞いていただこうかなと考えました。不充分な文面も多々有ると思いますが、ご寛容のほどよろしくお願いします。

 私は山口県小野田市で開業医の父を持つ三人娘の末子として生まれ、育ちました。東京の短大を卒業すると、小野田に帰り、私なりの夢を追って勉強に精を出していました。丁度その頃、両親がゴルフを始め、私にも外に出てゴルフをすることを勧めてくれていました。あまり、乗り気でなかった私ですが、母がまだオープンしてない、できたばかりのゴルフ場に私を連れていき、いきなりのラウンド。5番アイアンと7番アイアンでのティーショット、フェアウエーからでも打てど暮らせど、なかなかグリーンに乗ってくれない。乗っても、パターであっちに打ち、こっちに打ちという具合の初ラウンドでした。

 でも、楽しかったのか、先生についてレッスンを受けようということになりました。それからは父の診療が終り、夕飯を食べてから、毎日のように練習場に行って8時から10時頃まで練習をしていました。週2回位のレッスンでしたが、先生のお陰で私は、めきめき上達、半年もしないうちにあの宇部C.Cの西コースハーフ45が出たのですから、大喜びです。

 しかし自分がプレーしても、テレビでのゴルフ番組を見ることもなく、青木さんジャンボさんがどれかもよく判らないという程度だったのです。しかし、1975年から76年の冬にかけて、「ジャンボに挑戦」という番組で新人中島常幸という人が挑戦者としてテレビに出てきたのです。

 中島常幸は75年の5月に5アンダーでプロテストにトップ合格をした21歳の有望新人でした。


(1999.6.9掲載)

涙、涙、涙

 ちょっと、今日は主人の内緒話をしたいと思います。実は主人は、アーノルド・パーマー大好きなのです。彼がゴルフを始めた時、パーマーのスイングをまねていたら、父親から「ニクラウスのまねをしろ」と言われたそうです。

 今年の冬、ゴルフチャンネルでパーマーのストーリーを放送していたのです。それを見ていた主人はー人、ティッシュペーパーをとっては、涙、涙、涙。最後は嗚咽状態でした。テレビでよくある、数十年ぶりのご対面などをみて、私達家族のなかでも一番よく泣く主人ですが、パーマーの時はそれ以上でしたね。

 そんな今年、マスターズの放送前の午前中は、いろいろピンの位置を見たり、選手を見たりしていたのですが、ちょうど主人がいた7番ホールのグリーンにパーマーがやってきたのです。主人の顔をみると、とても嬉しそう。そして8番ホールのティーグラウンドに来たときのパーマーの笑顔!! そしてティーショットを打って、歩いていく姿! 決して勝つ事はないパーマーについて歩く多くのファン! そんなパーマーをみて、主人をふと見てみると、目を真っ赤にして、涙が今にも出んばかり。とにかく彼の目は、パーマーを敬愛してやまないという目をしていました。

 ゴルフの試合で泣いたのは後にも先にも一度だけ。あの全英オープンノーマンと闘って負けたときだけです。でもパーマーを見て流す涙、常幸さんもかわいいでしょ。そんな彼を知ってもらいたくてちょっと書いてみました。(怒られるかナー)